見渡す限りの黄色は春の日本の風景
「菜の花畠に入り日薄れ」
この一節は大正時代に作詞作曲された唱歌「朧月夜(おぼろづきよ)」の冒頭部分だ。音楽の授業で習った方も多いのではないだろうか。発表からおよそ100年が過ぎた現在でも歌い継がれる、日本を代表する作品に登場するくらい「菜の花」が咲き誇る春の風景は日本人にとって当たり前の風景だった。
しかし農業の担い手不足や換金作物への転換などを理由に、現在は日本国内における菜の花の作付面積は減少の一途をたどっている。そんな厳しい状況の中で、非営利活動法人菜の花トラストの宮茂(みやしげる)さんと、宮桂子(みやけいこ)さんはご夫婦で菜の花を守る活動している。
お二人は横浜町の菜の花畑を守るための活動はもちろん、菜の花の魅力を伝えるため、膨大な時間と手間をかけてなたね油を搾油(さくゆ)している。一切妥協することなく作られたなたね油はその品質の高さから、誰もが名前を聞いたことがあるようなホテルや、ミシュランの星を獲得しているレストランから、どうしても使いたいと声がかかる。
日本中、いや世界中の美味しい食材を知るシェフたちを唸らせるほどのなたね油が作られている背景には、菜の花トラストの活動を支える会員の方々の協力や、宮さんご夫婦の温かい思いがあった。
手間暇かけて搾るなたね油
インタビューに伺ったのは5月末。横浜町の菜の花の見頃は5月の半ば頃であることは知っていたが、道中で少しでも菜の花が観られないかと淡い期待を抱きつつ、むつ市にある菜の花トラストの事務所に向かって車を走らせた。
横浜町に差し掛かり景色を眺めると、やはり花は散った後だった。菜の花を観ることができず、少し残念な気持ちで事務所に伺うことになったが、茂さんと桂子さんは私たちが到着するなり嬉しい提案をしてくれた。
「搾油しているところを観てみませんか?私たちみたいな小さなところは一年に一回くらいしか搾らないところが多いんですけど、私たちは毎月搾っているんですよ。」
なんとこの日はちょうどなたね油を搾油する日だという。菜の花トラストでは一年中搾りたてのなたね油をお客様に提供するために月に2、3回ほど搾油している。
茂さんは快く我々を工房に招き入れてくれた。搾油している工房は建物の一部屋で、それほど広くはない。その中に搾油のための機械や、搾った油を静置するための一斗缶が並べられていた。茂さんが機械に投入している黒い粒が菜種だという。
「うちの菜種は焙煎していません。天日干ししたものをダイレクトに入れています。重量比で種の4割くらいが油だと言われていますが、うちのやり方だと2割5分くらいしか搾ることができません。」
焙煎した菜種を使うと効率よく搾油することが出来るが、菜の花トラストでは焙煎せずに天日干しした菜種を使うことで品質の良い油を搾油している。茂さんによると、目の前で搾っている油は『天日干しなたね油』か『御なたね油(おんなたねあぶら)』になる油だそうだ。
搾油されたなたね油はその後、缶に入れて静置したものを布と紙で一回だけ濾したものが天日干しなたね油となる。
御なたね油は一斗缶に穴をあけて、濾された油がポタポタと一滴ずつ落ちるのを待って作られる。この時間がかかる作業を6回繰り返して生成される。
「本当に必要な油だけ落ちて、いらないものは全部取り除けるので生で食べられるのが御なたね油なんですよ。」
菜の花トラストのなたね油はグレードが上がるほどに手間と時間がかかる作業が増える。
良かったら舐めてみませんか、と茂さんが指さす先にあったのはなんと今まさに搾油され流れているなたね油。お言葉に甘えて、いただいた油を口に含んでみるとその香りに驚いた。菜の花の華やかな香りが口いっぱいに広がる。すごく優しい味だがしっかりと甘味も感じる。
「この種は去年のだからちょっと香りは控えめですけどね。」
信じられないことに天日干しをした直後に搾ったものはもっと香りが強いという。天日干しは暑い時期にしっかりと種を乾燥させなければならないため、天日干しを行った直後の秋のなたね油はまた一段と香りが良いらしい。
品質の秘密は天日干し じっくりと時間をかけて丁寧に
一通り見学を終え、事務所に戻りお話を伺った。工房内で見た天日干しの菜種は事務所のある敷地内でビニールシートを広げて天日干しにしているという。
「気温が28℃以上の日に3~4時間かけて天日干しすると水分がほぼなくなるんですよ。ただご存知の通り気温が28℃以上の日ってなかなかないんですよね。」
本州最北端の青森県では夏でも気温が低い日は多い。県内でも北部に位置するむつ市だとなおさらだ。そんな限られた時間で一年分の6~7トンの菜種を天日干ししなければいけない。一日で天日干しできるのは500~600kg。最低でも10日ほどの時間が必要となる。
「途中で雨が降るのは絶対にだめだから、天気予報をしっかり見て確実にできるという日を10日みつけてやらなければいけないとなるとなかなか厳しいですね。一度出した菜種をまた袋に詰め直すのも重労働なんです。」
限られた人数で、限られた期間内に一年分の菜種を用意しなければならない。
お話の途中で桂子さんが白い器に4種類のなたね油を用意してくれた。
桂子さんが試食用に用意してくれたなたね油は菜の花トラストで製造している商品だった。写真では伝わりづらいかもしれないが、一番奥の「ガーリックなたね油」を除いて、手前から色が薄い順に並んでいる。
「油の味はわかりますか?」
という桂子さんの何気ない問いかけに、つい笑いがこぼれる。普段は油の違いなんて意識したことがない。なんとかサラダ油とごま油の違いくらいはわかると思うが、同じなたね油の味比べは自信がなかった。味の違いがわからなかったらどうしようというプレッシャーを感じた。
まず桂子さんに勧められるままに一番色が濃い油を口に含んでみた。工房内で口にしたものと同じく口の中一杯に菜の花の香りが広がる。ただ、もっと雑味を感じないクリアな味わいに感じる。この油の美味しさは私でもわかる。この油が「天日干しなたね油」。商品ラインナップの中では一番グレードの低いものとなるが、それでもその香りと美味しさに驚いた。
そして次に口にした『御なたね油』。天日干しなたね油のクリアな味わいがもっとクリアになっている。天日干しなたね油よりも上品で繊細に感じたその味と香りは、思わず声が漏れるほどの美味しさだった。
そしてもっとも澄んだ色のハイエストグレード。この油の味は言うまでもない。見た目の通り極限まで研ぎ澄まされたクリアな味と香り。よく自然素材を使った食材に「ピュア」という言葉が使われるが、その言葉はこのハイエストグレードのためにあるんじゃないかと思うほどに雑味がなく、菜の花の香りが広がった。
「ハイエストグレードは本来化粧品の原料になる油なんです。搾油するときに45℃以上になるとビタミンが分解されてしまうので、摩擦を少なくして手間も時間もかけて搾っています。あまりに綺麗で、あまりに美味しいので高級な油として商品にしました。」
桂子さんが話してくれた通りの綺麗な黄色、そして鼻に抜ける菜の花の香りと澄んだ味わい。まさに最高級のなたね油だと感じた。
最後にいただいたのは「ガーリックなたね油」。澄んだ味わいの油ににんにくという、ミスマッチとも思える組み合わせだが、不思議なことにお互いを引き立てあっていた。桂子さんが用意してくれた野菜にかけていただいたが、ガーリックなたね油がかかっているだけで最高級のサラダを味わっている気分になれた。
「いいものにはいいべべ着せろ」
今ではたくさんの人たちから注文される菜の花トラストのなたね油だが、活動を開始した当初は販売せず、会員の方への年会費の御礼の品として作られていた。当時は大きなペットボトルに入れて会員の方に配られていたなたね油だったが、ペットボトルには小さな穴がたくさん開いているので油が酸化してしまうと偶然2つの大学の先生から指摘を受けて、缶やガラス瓶を使うように容器に工夫を施した。
その後、道の駅に商品として並ぶようになると青森県の総合販売戦略課がある広告社になたね油を持込むということがあった。その時に、どんなにいいものでもデザインが良くないと売れないとアドバイスがあったのだ。
その時具体的に受けた提案は、ラベルを和紙にして本格的な書家に商品名を書いてもらったらどうだろうかというものだった。県から書家を紹介してもらうことも可能だがかかる費用は約50万円。とてもじゃないが無理だということで、桂子さんは小学校時代の恩師である下北で有名な書家の先生にお願いして、県の職員の方が命名してくれた「御なたね油」という商品名を書いていただくことができたそうだ。
「お金がないから考えるしかないんです。」
桂子さんは限られた予算の中でできる限りの工夫を施した。ボトルのサイズや形、使用する和紙の質や色にもこだわった。
多くの方の協力やアイディアと、お二人の工夫と努力が実を結んだ御なたね油のボトルは青森県のデザイン大賞を受賞するまでになったのだ。
「はっきり言ってこだわった商品になっています。いいものはいいべべ着せてと県の方からアドバイスもいただきましたので。」
『べべ』とは幼児語で着物を指す。せっかくの価値がある商品だとしても、それにふさわしい恰好をしていなければ魅力は伝わらない。
横浜町の菜の花を守るため立ち上がった「よそもの」
茂さんが菜の花トラストの活動を始めるきっかけとなったのは2001年のこと。横浜町の第四次総合振興計画の中で、横浜町が町民の声を反映させたいということで委員を募集していた。茂さんと桂子さんは1年間委員として参加した。町民の方々と横浜町の10年後について話した中で、菜の花は残したいという声は多かった。当時はバブル崩壊後の不景気が続く時期で助成金や補助金が削られており、どのように菜の花を残して行けばいいのか考えなければならない時期にさしかかっていた。
そんななか、第四次総合振興計画のコーディネーターが「大豆トラスト」の会員だった。大豆トラストとは会員を募り、様々な活動を通して地域で栽培される大豆を守り、日本の自給率をあげようという活動だ。会員は生産活動などの作業に従事し、収穫した大豆か、その大豆で作った味噌かどちらかを選んで年会費の返礼を得ることができるというシステムだ。
茂さんはこの大豆トラスト運動に倣って、参加してくれた会員の方に搾ったなたね油をプレゼントするという形で菜の花トラストの活動をスタートした。
まずは会員を集めなければいけない茂さんには大きな障壁があった。
「よそものが頭になってできないよね。」
と話す茂さんは実は静岡県出身で、以前仕事で六ヶ所村に住んでいた。南北に細長く伸びる横浜町の北部、中央、南部のそれぞれの町の長老たちに声をかけた。
「初代会長は本当に人望があるすごい人で、敬老会のメンバーにも声をかけ、トラストメンバーに加わっていただきました。」
一年目から菜の花トラストの会員はおよそ300人ほど集まった。しかもその割合は横浜町の人たちだけではなく、1/3が横浜町以外の青森県の方、1/3が青森県外の方だった。
こうして人とのつながりで集まってくれた人たちと、菜の花を守りたいという想いに共感してくれた人たちによって菜の花トラストの活動はスタートした。自分のことをよそものと表現した茂さんだったが、出身地など関係なく全国の人たちが一つになってスタートすることができた。
日本の風景を未来に どうしても残したい温かい思い
「私も人生変わっちゃったよね。」
としみじみ話す茂さんはもともとは全く違う業種の会社に勤めていた。地元の静岡県にいたころは新幹線で首都圏まで通勤するような生活を送っていたそうだ。仕事で六ヶ所村に出向となった年に、新聞の広告で横浜町の日本一の菜の花サポーター募集という記事を目にした。
「日本一のサポーターになれるんだったらやってみようかなと思いました。当時は隣の六ヶ所村に住んでいましたけど、実際に横浜町の菜の花を観てすごいなと思いました。」
それが茂さんと横浜町の菜の花に関わることになるきっかけだった。
茂さんは、1999年春オープン予定だった横浜町の道の駅の駅長募集に応募し、初代駅長、そして菜の花プラザの初代支配人に就任することになった。
「満開の菜の花を観ると、小さい時におふくろが作ってくれた錦玉子の、あのイメージを思い出したんです。その時はもう亡くなっていたんですけど、横浜町の菜の花を見た時に、おいしかったなと思い出しました。だからこういうところを残したいねって。でもどうしたら残せるの?って思って、補助金もなくなっていくし、菜の花畑もどんどん無くなっていくと聞いたのでさらに残したいという気持ちが強くなりました。」
柔らかな口調で話す茂さんの表情は、代表としてのしっかりとした表情ではなく、温かく優しい笑顔だった。きっと茂さんと桂子さんの心の根底にあるのは、菜の花を守りたいという純粋な温かい気持ちなんだろうと感じた。
活動を支えるのは縁と繋がり
インタビューの最後に今後の活動について伺った。茂さんは少し考えてこう話してくれた。
「後継者の問題で困っています。私も今年で70歳になるのであと何年?ってところあるでしょ。まだ稼げるところまでいってないんです。なたね油でも儲ける方法はあるんでしょうけど、儲けだけに走りたくないんです。そういったことに理解があって後継につないでくれればいいけど、それを望むのは無理かなと思う部分もあります。」
桂子さんによると、どうしてそこまでして頑張るの?と聞かれることも多いようだ。しかしその理由は単純だ。
菜の花トラスト創立時に集まった会員、その中には顔も見たことがない人もいた。現在でも当時参加してくれた人のうち約10%が今でも会員として参加してくれている。
「会ったこともない人が20年以上応援してくれているんですよ。お金がないからって言ってやめられませんよ。そういう匙の投げ方はしたくないので。」
人のことを第一に考え、人とのつながりを大事にする。それが桂子さんのスタンスであり、菜の花トラストの活動を続ける理由だ。お二人はお世話になった方々のお話をする際、必ずその方の名前を口にしていた。そしてその方々への感謝を必ず口にする。
待ってくれている人たちのために一切の妥協なく未来へつなぐ
インタビューの最後に、お二人にお願いしてお写真を撮らせていただいた。インタビュー中は常に真剣な表情だったお二人は入口の前で商品を持って最高の笑顔をカメラに向けてくれた。
入口に貼られている「マスクの中は笑顔です」という可愛らしいイラストが描かれた張り紙、社用車に描かれたキャラクターも笑顔。思い返せばこのインタビュー中も数々のお気遣いをいただき、難しい質問にも優しく笑顔で答えてくれた。
お二人は「たくさんの人たちに助けられた」と口を揃えるが、その理由がここにあるような気がする。
お二人の笑顔と、絆を大切にする姿勢が人と人の繋がりを強くして、素晴らしいなたね油が出来上がる。
「うちにもたくさんの見学申し込みがあり、工房の中や製造工程も全部見せたんです。だけど真似をするところは一つもありませんでした。手間がかかりすぎて無理なんです。」
お二人は待ってくれている人たちのために一切の妥協をすることはない。どれだけ手間や時間がかかろうと、必ず美味しいなたね油を届ける。それはお二人にしかできないことだ。
「値段だけみると高く感じるかもしれませんが、酸化しにくいので揚げ油としても最後の一滴まで使うことができてむしろ経済的かもしれません。うちのなたね油は健康にもよく、アトピーの子どもさんがいるご家庭でのご愛用が多いんです。」
日本人のDNAに刻み込まれた菜の花の風景と、なたね油の味。茂さんと桂子さんがつないだ菜の花の風景は、これからもずっと未来につながっていく。
ライターメモ
これまでもおよそ10組の生産者レポートを担当させていただいたが、その中でも茂さんが体験されてきた人生経験は他の人がなかなか体験できないことばかりだと感じた。お二人のお話の中で一番大きい声を出してしまったのが、茂さんがサッカーでヨーロッパ遠征をしたことがあるというお話だった。さすがサッカー王国静岡のご出身と思うとともに、ヨーロッパまで遠征するなんてかなり実力がある選手でなければ出来ないのではないか、と思った。
レポート内に「道の駅駅長」と「菜の花プラザの支配人」と書かせていただいたが、同じじゃないの?と思われた方も多いだろう。実は道の駅とは駐車場とトイレのことで、敷地内にある商業施設は別のものらしい。この知識も茂さんが教えてくださった。
お二人のお話は本当に面白いお話が盛り沢山で、経験豊かなものばかりだった。文字数制限がなければ全部書いてしまいたい。泣く泣く掲載する内容を絞って記事を書き上げるライター加藤であった。